VOM

 Voice of Memory
記憶からのささやき


シェイクスピアは誰だったのか。


シェイクスピアの名言のページより続く。


1. 今に至るまで、ストラットフォードエイボンのシェイクスピアが彼の生涯に於いて劇の一本も書いた事実を知る人や証明できる人は誰一人としていない。
2. 今に至るまで、彼が生涯に於いて(一通の)手紙を書いたことを知る人や証明できる人は誰一人としていない。
3. 今までに知られる限り、生涯に於いて彼はたった一通の手紙を受け取っている。
4. 今に至るまで、彼が生涯に於いて唯一つの詩を残している事が知られている、墓誌として。
これらの詳細以外は、殆ど知られていないし残されていない。3

彼の創作活動の時期とその前の知識を蓄える経験時代を把握するため、痕跡を右欄に載せた。晩年、彼は帰郷し、遺言を作成。3ページのそれぞれに署名している。完全に商売人の遺書で、彼の全財産である、宅地・建物・剣・銀メッキせいのボール(おわん)など二台目のベッドを含め詳細に記している。 "幸運な"未亡人には二番目に良いベッド以外に、一銭足りも残していない。本に関しては一冊も記されていない。遺言には劇や詩や未完成の原稿、劇の原稿の断片的な物さえ、一切載っていない。5

経験は作家の最も大切な資産である。経験が創作に於いて、血・肉・筋肉となるのである。彼はこの豊かな経験を持っていた事になる。しかも、法律とその現実的な知識、煩雑な裁判所における手続き。 それだけではない。彼は、軍隊・航海・王国の法廷や貴族社会の作法や慣習まで知り尽くしていたのである。 彼はラテン語を使いこなしているが、学校に行った形跡もラテン語を学んだ痕跡も見当たらない。 同様に彼がロンドンに出て行った時には、下層階級や下品で無知な者についての直接的な知識と経験、時代の誰よりも古代や近代の文学の知識にさえたけていた事にもなる。何故なら、ロンドンへ着くやいなや、それらを存分に発揮して世の賞賛を得ることになるからだ。6

シェイクスピアを書いた人はこれらを全て知り尽くしている人しか、書けないのである。
マーク・トウェインの"Is Shakespeare Dead?" より。

後書き。
筆者はシェイクスピアの研究者でもないので、誰が本当にシェイクスピアを書いたのかには、正直あまり興味がないが、重大なことはトウェインのこの書を読む前と後で、歴史(過去)が変わったことであると思っている。


「Is Shakespeare Dead?」書より。
1You can get the life-histories of all them but one. Just one- the most extraordinary and the most celebrated of them all - Shakespeare! Shakespeare had no prominence while he lived, and none until he had been dead two or three generations. The plays enjoyed high fame from the beginning; and if he wrote them it seems a pity the world did not find it out.

2When Shakespeare died in Stratford it was not an event. It made no more stir in England than the death of any other forgotten theatre-actor would have made. Nobody came down from London; there were no lamenting poems, no eulogies, no national tears - there was merely silence, and nothing more. A striking contrast with what happened when Ben Johnson, Francis Bacon, and Spenser, adn Raleigh and the other distinquished literay folk of Shakesperae's time passed from life.

3So far as anybody actually knows and can prove, Shakespeare of Stratford-on-Avon never wrote a play in his life. So far as anybody knows and can prove, he never wrote a letter to anybody in his life. So far as any one knows, he received only one letter during his life. So far as any one knows and can prove, Shakespeare of Stratford only one poem during his life - one seen on his tomb. Beyond these details we know not a thing about him.

4 Facts
He was born on the 23rd of April, 1564. Of good farmer-class parents who could not read, could not wirte, could not sign their names. At Stratford, a small back settlement. Of the first eighteen years of his life nothing is known. They are a blank. On the 27th of November (1582) William Shakespeare took out a lincese to marry Anne Whateley. Next day William Shakespeare took out a license to marry Anne Hathaway. She was eight years his senior. William Shakespeare married Anne Hathaway. In a hurry. By grace of a reluctantly-granted dispensation there was but one publication of the banns. Within six months the first child was born. About two (blank) years followed, during which period nothing at all happened to Shakespeare, so far as anybody knows. Then came twins -1585. Feburay. Two blank years follow. Then - 1587-he makes a ten-year visit to London, leaving the family behind. Five blank years follow. During this period nothing happened to him, as far as anybody actually knows. The -1592 - there is mention of him as an actor. Next year -1593-his name appears in the official list of players. Next year-1594 - he played before the queen. A detailof no consequence: other obscurities did it every year of the forty-five of her reign. And remained oscure. Three pretty full years follow. Full of play-acting. Then In 1597 he bought New Place, Stratford. Thirteen or fouteen busy years follow; years in which he accumluated money, and also Then 1592 - there is mention of him as an actor. Next year - 1593 - his name appears in the official list of players. Next year - 1594 - he played before the queen. A detail o fno consequence: other obscurities did it every year of the forty-five of her reign. And remaines obscure. Three pretty full years follow. Full of play-acting. Then in 1597 he bought New Plcae, Stratford. Thirteen or fourteen busy years follow; years in which he accumulated money, and also reputation as actor and manager. Meantime his name, liberally and variously spelt, had become associated with a number of great plays and poems, as (ostensibly) author of the same. Some of these, in these years and later, were pirated, but he made no protest. The-1610-11 - he returned to Stratford and settled down for good and all, and busied himself in lending money, trading in tithes, trading in land and houses; shirking a debt of forty-one shillings, borrowed by his wife during his long desertion of his family; suing debtors for shillings and coppers; being sued himself for shillings and copper; and acting as cofederate to a neighbor who tried to rob the town of its rights in a certain common, and did not succeed. He lived five or six years - till 1616

5 He made a will, and signed each of its three pages with his name. A thoroughgoing business man's will. It named in minute detail every item of property he owned in the world - houses, lands, sword, silver-gilt bowl, and so on - all the way down to his "second-best bed" and its furniture. He left her that "second-best bed." And not another thing; not even a penny to bless her lucky widowhood with. It mentioned not a single book. The will mentioned not a play, not a poem, not an unfinished literay work, not a scrap of manuscript of any kind.

6 Experience is an author's most valuable asset; experience is the thing that puts the muscle and the breath and the warm blood into the book he writes. However, it is "conjectured" that he accomplished all this and more, much more: learned law and its intricacies; and the complex procedure of the law courts; and all about soldiering, and sailoring, and the manners and customs and ways of royal courts and aristocratic society; likewise accumulated in his own head every kind of knowledge the learned then possessed, and every kind of humble knowledge possessed by the lowly and the ignorant; and added thereto a wider and more intimate knowledge of the world's great literatures, ancient and modern, than was possessed by any other man of his time - for he was going to make brilliant and easy and admiration-complling use of these splendid treasures the moment he got to London.

ユングとシェイクスピア つづき
ユングにとっては、芸術は混沌とした本能を意識という秩序に統合するひとつの方法であった。 ユングの言う「幻視的な芸術家」とは、自分の意識を超えた、もっと大きな目的にとらわれた人のことをいう。 芸術家は自分の幻視を作品にするというよりは、幻視によって目分自身が作り変えられるのだ。芸術作品が偉大であればあるほど、それだけ作者は作品から退き、個人的なものが消えてゆき、超個人的なものが前面にでてくる。ユングは、芸術家が幻視的な作品の誕生に手を入れなければ入れないほど、作品は人生により近くなると考えていた。 芸術とは本能であり、自律的なコンプレックスであるから、そこには、意志は介在できないし、熱狂のうちに作られるので、病理的というよりは、神的なものである。 ユングは、批評が有益な批評になるためには、集合的無意識、神話的なイメージから発するものでなければならないと示唆している。
  人間の心の発達にとって重大な中で、自我の誕生が演じられている。「オセロー」では、男女が結合を試みるが、その結合は、アニマとアニムスの葛藤によって挫かれる。「あらし」では、プロスぺローが個性化に成功し、生成と消滅が円環をなすことを認め、迫りくる死を心から受け入れる。プロスぺローは、死は神性に近づくためのイニシエーションであると確信している。 (ユングとシェイクスピアより)

無意識の創造
  内向的な態度は、客体からの要請に対する主体および主体意識的な意図や目的の主張を特徴とします。それに対して外向的態度の特徴は、客体の要請に対する主体の従属でず。

  シラーの戯曲は、私の見るところ素材に対する内向的な態度というものをまことによく語っています。シラーの詩も多くは同様です。素材は詩人の意図通りにこなされています。これと反対の態度を私達にまざまざと見せてくれるのが「ファウスト第二部」で、ここでは素材は頑として譲らずおのれを主張しています。もっと格好の例はニーチェの「ツァラトゥストラ」でしょう。なにしろ著者自ら「一がニになった」と言っているのです。
  無意識からやって来る芸術創作の衝動というものが、いかに強く、また気まぐれで、しかも一方的な有無を言わさぬものであるかということなのです。偉大な芸術家の創作衝動がいかに強く、当人の人間性の一切を引っさらい、健康や人間としてのごく普通の幸福を奪い取ってまで も、その作品に奉仕させるものであるかは、これまで多くの伝記作者が証明してきたとこ ろではなかっただでしょうか。
  芸術家の心の中にあっていまだ生まれ出てない作品は、一つ の自然のカであって、暴君的な腕力を振るうか、自然が目的を貫くときのあの微妙な狡知(こうち)を働かせるかして、創造の担い手である人間の個人的安危や禍福にはおかまいなしにおの れを貫こうとするるのです。創造的なるものは人間の中に、大地に太木が生えるように生きて 育つのであって、貧欲に養分を吸い取ります。だから私達は、創造的形成のプロセスを心に植え付けられた一つの生き物であるとみなしていっこうに差し支えありません。 分析心理学はこれを自律的コンプレクスと呼んでいます。
  それは心の分離した一部分として、意識の支配を逃れた独立した心的生活を導き、そのエネルギー価に応じ、カに応じて、あるいは任意の方向に向かう意識のプロセスを妨害したり、あるいは自我より上位にある 審判官として自我を思いのままに動がしたりさえするのです。それに対応して言うなら、あの創造のプロセスとご一体化する方の詩人は、無意識の「ねばならぬ」に襲われたとき、端(はな)からを受け容れるタイプであり、もう一方の、創造性がほとんど異質な暴力として立ち向かってくる詩人は、なんらかの理由でそれを進んで迎え入れることができず、したがって「ねばならぬ」に急襲されるタイプと言えるでしょう。
  もしも、意識的な意図の下に行われる創造もまた、その意図や意識は見せかけで、実は詩人の主観的な錯覚にすぎないとしたら、その作品もまたあの未知なるものに届き、時代の意識を越えた、徴徴としての特性を持っていると言えましょう。そうした特性が隠されて気づかれないのは、読者もまた時代精神に画された作者の意識の限界を越えていないからにすぎません。 読者も同時代の意識の限界の中にあって、自分の世界の外にアルキメデスの支点を手に入れることができないからです。それがなければ人は自分の意識を蝶番(ちょうつがい)から外すことができない、言葉を換えて言えば、こうした種類役の作品に象徴を看て取ることができないのです。象徴とはまさに、私達の現下の理解力を越えた、より広くより高い意味の可能性であり示唆であると言えましょう。
  たとえ芸術作品が、一見表向きそうであり表向き語っているところのもの以上の何もでもなく、それ以上何も語ってはいないように見えたとしても、同じなのです。ある詩人が突然再発見されるというのは、よくあることではありませんか。これは私達の意識の発達が一段と高くなったときに起こるので、その地点から眺めるとき、古い詩人が新しいことを語るのです。
  ここで象徴的な作品の場合を想定しました。それもその起源が、作者の個人的無意識にあるのではなくて、無意識の神話という、人類の共有財産である元型的イメージを含むあの領或に根ざしている作品の場合なのです。
  神話的状況が生じる瞬間には、つねに情動の特殊な激しさがつきものです。私達の中で、いまだ鳴ったことのない弦が触れられたかのような、あるいは私達があるとは思ってもいなかったカが解き放たれたかのような思いをさせられます。
  それだけに、ある典型的な状況に出会ったとき、突如ことさらな解放感を味わって、ー荘重な気分になったり、あるいはあらがいようのないカに掴まれれたように感じたりしたとしても、何の不思議もありません。そんな瞬間、私達はもはや個々の存在ではなく種であって、全人類の声が私達の内に高鳴るのです。ですから普段は、個々の人間が持てるカを存分に発揮することなどはまずありえないのに、理想と呼ぱれるこれら集合的な観念の一つがカを貸して、普通の意志のカではその糸口も見つけることのできない、人の内なる本能のあらゆるカを解き放つ場合は別なのです。
  これが芸術の効用の秘密です。創造のプロセスとは、少なくとも私達に辿れる限りでは、元型の無意識の賦活であり、それを発展させ形づくって、完成した作品に仕上げることにほかなりません。原初的なイメージを造形するとは、言ってみれば現在の言葉に翻訳することであり、それによっていわば万人に、さもなくば汲み損ねたであろう生の最も深い源泉の入口が、再び見つけられるょうになるのです。ここに芸術の社会的な意義があります。芸術は絶えず時代精神の教育に携わっている、というのも、時代精神に最も欠けた形姿を呼び出すからなのです。現在への不満から、芸術家の憧憬は内に向かい、時代の欠賄と一面性を有効に補償するのにちょうどふさわしい原像を無意識の中に探り当てるのです。

あ  るいは芸術は「意味する」ものではまったくなく、「意義」もまるで持ってはいないのかもしれません。少なくとも私達がここで使っているような「意味」はない、芸術はおそらく自自然とと同じようにただ「ある」だけで「意味し」てはいないのかもしれません。

、作者の筆に流れ込んでこの世に生まれ出た作品です。こうした作品は文字通り作者に押しかけてきたにすぎず、彼の精神は、あれよあれよと目を丸くするだけだったのです。形式も、その作品がいっしょに持ってくるのであって、こちらで付け加えたくても拒否され、受け容れたくなくても押しつけられるばかりです。 作者の意識がなすところなく呆然とこのさまを前にたたずんでいる間に、溢れんばかりの思想とイメージが、彼の意図が創り上げたのでもなく、彼の意志が思い浮かぺようとしたわけでもないのに、洪水となって襲襲いかかってくるのです。しかしいやいやながらにでも彼は、おのれの自己が、これらすぺての作品において、自分の中から語り出ていることを認めるほかはありません。おのれのいちばん内奥の本性が現れ出て、自らわが舌に語れと命じた覚えのまるでないことどもを声高らかに告げ知らせているのに気づかされるのです。彼には、ただ黙って服従し、この一見他所からやって来た衝動に従うことしかできません。自分の作品が自分より偉大であり、それゆえ自分で命令を下すことのできないカをわが身に振るっているのを感じるばかりです。彼本人は、創造的形成のプロセスとは同一でありません。自分が作品の下方に、あるいはせめて傍らに立っている、いわば第二の人物として、ある見知らぬ意志の呪力圏に陥っている存在にすぎないことを自覚しているのです。

ゲーテでは、形式の整った詩と(内向的)、「フアウスト」第二部(外向的)を作品として完成させるための永年の格闘との違いがそれに当たります。

シェイクスピアの形跡

1564年4月23日 片田舎のストラッドフォードに誕生。父は農家で、読み書きが出来ず、名前を署名できず。
1582年11月 27日 Anne Whateleyと結婚。翌日Anne Hathawayと結婚。彼女は8才年上。何とか一つの結婚表明に留める。6ヶ月以内に第一子を儲ける。その後2年間は、知られる限り特に何もなし。
1585年2月 双子誕生。
- その後2年間空白。
1587年 妻子を村に残して、ロンドンへ10年間の旅に行く。
- 5年間 知られる限り重要事項なし。
1592年 役者としての最初の痕跡あり。
1593年 役者として公の表に名前が載る。
1594年 女王の前で演出。
- 3年の充実した演劇活動が経過。
1597年 ストラッドフォードに新しい場所を購入。
- 次の13年か14年間忙しい時をすごす。その間に金を稼ぎ、役者として管理者として評価を受ける。
 一方、この間に数々の劇と詩の表面上の著者として、名前が知られ始まる。しかし、彼の名前は多数の異なる綴りになっているだけでなく、盗作されたにも関わらず、異議を唱えていない。
1610年11月 ストラッドフォードに永久に帰郷。お金貸し業・10文の1税の取引・土地や家屋の商売に忙しく数年をすごす。一方、彼がいない間に妻が作った41シリングの借金の返済を回避し続ける。
1616年死去4
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